今夜は久しぶりに少し時間がある夜。やろうと思えば無限にやりたい事/やるべき事は作れるので、時間があるということは、何もしたくない気分だということだ。こういう夜は、暖かい飲み物を入れて、たまにしか書かないブログの記事を更新するなどして、のんびり過ごすに限る。
この一か月は夢中でいろんなことをしていた気がする。情報をたくさん取り込んで、新しい試みをいくつかはじめ、遠方へ遊びに出かけ、いろんなことを考え検討し、遊んだ。時間にバッファーがなくて、常に何かしらしていたと思う。それこそ、自動車で通勤中の信号停止の時間ですら、携帯でメモを書いたりしていた。すこし、一人で考え事をしたり自分と向き合う時間が欲しいかもしれない。
健康のために習慣的な運動を始めなければならない、と考えながらずっとできないでいた。体を動かすこと自体は、最近はそこまで嫌いではなくなった。運動をした後の爽快感と、ご飯がおいしくなる感覚は好きだ。ただ、運動を始めるまでの心理的ハードルが高い。有り体に言うと、めんどくさいし、運動してる時間があればほかのことをしたい、というのが正直な気持ち。けれども、習慣的な運動を通して健康な体を維持することが良いアウトプットにつながることを考えると、私の中でますます運動の重要性が増すのだった。忙しくなる前に通っていたジム通いを再開しよう。
先日Youtubeを見ていると、「自分の頭の中のもう一人の自分」についてYoutuberが話していた。出演者によって、「もう一人の自分」の役割はまちまちだったし、それが現れた年齢もまちまちだった。ある人にとっては、自分を冷静に見つめて客観的なアドバイスをくれる存在だったり、またある人にとっては自分の思考を言語化して考えるための聞き手だったりしたようだ。それが現れるのも、早い人は小学生だったり、遅い人は大学生だったりで、とても興味深かった。
私の、「頭の中のもう一人の自分」が現れたのは中学生のころくらいだったと思う。私にとってのもう一人の自分は、”自分が押し殺している感情”だったと思う。彼は無口だったが、いつも私のそばにいて、私のことを見つめていた。私は思考にとらわれがちで頭でっかちだったので、心で感じていることや、感情を無視しがちだったのだと思う。彼の視線を感じ続けていたが、どうしたらいいのかずっとわからなかった。私自身が心で感じていることを無視して頭だけで何かを決めようとするときには、いつも彼からの視線を感じた。それが彼からの最大限の抵抗だったのだと思う。それでも私は感じたままに従い、動くという経験がわからなかった(どんなことも頭で考えて決めたかった)ので、それを無視し続けてしまったのだ。おかげで不要な遠回りなどもいろいろしてしまった。でも、今ならわかる。もう一人の自分からの視線を強く感じたとき、私は彼のことを見つめ返し、彼をよく観察すればよいのだ。たったそれだけのことを、私は何十年もできずにいた。でも今は、それに気づくことができている。長い道のりを経て、私は私をケアする方法を手に入れたのだ。
恐らく、「もう一人の自分」は多くの人の頭の中に存在するのだと思う。そして多くの場合それは自分に欠けているものを補うために、無意識の自分が自分と他人の境界線上に生み出すものなのだと思う。
皆さんにとっての「頭の中のもう一人の自分」は、どんな存在だろうか?私にもぜひ教えてほしい。
その話をしていたYoutuberは、「忙しくなってからはもう一人の自分が消えつつある」という話もしていた。はっとした。おそらく、「もう一人の自分」をないがしろにし続ける生活をしていると、きっと消えていってしまうものなのだ。私は上記のようないきさつから、「もう一人の自分」はとても大切な存在だし、思春期を一緒に過ごして情もあるので、消えないように時々耳を澄ませるようにしたい。でも、きっと人によっては、消えていったほうが幸福な場合や、代わりに「頭の中の妻」、「頭の中の子供」に置き換わっていく人もいるんだろうな。


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