人生の「かもしれない運転」
「かもしれない運転」は自動車を運転するときの基本だ。「人が飛び出してくるかもしれない」、「車が信号無視してくるかもしれない」。来る危機に備えて、対処がすぐにとれるよう、常にトラブルを予測しながら運転する方法だ。安全に運転するためにはとても大事な姿勢だ。
しかし、自分の人生をドライブしていくにあたり「かもしれない運転」を行うのは考え物だ。
私は、よく自分の人生で「かもしれない運転」をしてしまう。車の運転と同様、「こう行動をとると、あとで手痛いしっぺ返しが来るかもしれない」みたいな、リスク回避を促すものであればよいが、「あの時、こういう選択をしていたらこうなっていたかもしれない(こうなれていたかもしれない)。」というパターンが私の中では多い。
若いうちに歯列矯正をしていたら。受験する大学が違っていたら。就職した会社が違っていたら。学生の頃、「自分を大切にする」方法をはき違えていなかったら・・・。
思えば、ずっと「自分の可能性を狭める行動」にとても抵抗があった。若いうちから自分の進路を固めてしまう事や、取り返しのつかない選択は、なるべく先送りにしてきた。自分が何をやりたいのかわからなかったので、なにかを目指したくなった時それがもう手遅れで目指せなくなってしまっていたら、とても悔しい思いをするだろう。そう思っていた。なので自分が将来選ぶ可能性がある選択肢は、極力残すことを意識しながら生きてきた。そして勉強をしておけば進路の幅も狭まりにくいと考えて、勉強だけはそれなりに頑張っていた。(高校卒業までだったけれども。)
好奇心がとても強いので、いろんな経験をしてみたいと思っている。この世界には裏返しになった未知のカードが無数に広げてあって、私はそれを表に返して、何が記されているのか自分で確認するのが楽しいタイプだ。そして、たくさん表にしていけば(経験すれば)、自分の中で比較がどんどんできるので、自分の一番のお気に入りのカードが見つかるのではないかな、といつも心のどこかで期待している。選べるカードが少ない中からの選択になってしまうと、それが本当に「自分の一番」なのか確証が持てないのが怖いのだ。
そういう、「自分の可能性を狭めていないか、未熟な物差しで現状を不当に高く評価してしまわないか」という恐怖が、人生の「かもしれない運転」につながっているのだと思う。結局、可能性を狭めないようにどれだけ生きても、年齢とともに少しずつ自分の人生は定まっていくし、要所要所で取捨選択を迫られる。今年で34歳になる私も、いくつか人生の選択をしてきたし、その選択が誤っていたと思いはしない。それでも私は、手放してきた選択肢のことが気になってしまうのだ。なんなら、当時選択肢に挙がらなかった道のことさえ、経験できなかったことが私はちょっと悔しい。
自分が取りえなかった選択肢に想いを馳せ、悦に入ったり悔しがったりするのは結構なのだが、それで今の自分がおろそかになったり、気が散ってしまうのは良くない。もし自分が人生で大きな失敗をするとしたら、この「好奇心」が悪さした時だろうな、と思っている。
しかしその強い好奇心が、私を今日まで生かしてくれたし、ここまで連れてきてくれた。
そして、いつもいろいろと自分の人生の異なるパターンを想像してみるけれど、一通り想像した後、「今の自分って結構幸せだよな」と現実に返る。
そう思うと人生の「かもしれない運転」は、(現実に返ってこれるのであれば)思ったより悪くないのかもしれない。
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